官軍の整備と反撃

日本軍が侵略を開始して約一ヶ月ぶりに湖南を除いた大部分の地域が敵の手中に入ることになり、義州に避難した宣祖も大きい脅威を受けることになるや朝鮮朝廷は明国に救援を求めた。

明国は派兵可否の議論が様々だったが、‘朝鮮で道を借りて明を討つ(假道入明)’を意識しながら、平壌陥落により戦争状況が不利になり、自国も危急だと判断して救援兵派兵を決めた。まず、遼陽副摠兵祖承訓が5千人の兵士を率いて入ってきた。しかし、1592年7月15日、明国軍は日本軍が占領していた平壤城を雨風が吹き付ける夜を利用して攻撃したが、かえって日本軍の奇襲を受けて大敗した。

これを契機に明国と日本は講和交渉が始まった。以前にも小西は臨津江で朝鮮軍と対立している状況で二度にわたって講和交渉を要請したが成功せず、1次明国軍の参戦を契機に明国との講和を必要とした。明国も1次救援軍が敗れるや、倭軍が平壌以上は侵入しないことと、朝鮮軍も南側に入ってきて作戦しないことで合意させようとした。

平壤城戦闘 平壤城戦闘

一方、明国1次救援軍が失敗することによって、明国は講和しようという意見と派兵しようという意見が分かれて論議になったが、結局派兵に傾いて2次援軍を送ることにした。1592年12月、李如松は4万3千人余りの兵を率いて鴨緑江を渡ってきた。

明国救援軍は鴨緑江を渡るや、朝鮮も官軍を率いて結集し、義僧軍も加担して、1月28日平壤城を攻撃しはじめて平壤城の奪還に成功した。一方、朝鮮の将帥権慄は都城を修復するために北進している間、幸州山城で日本軍の大兵力と激戦を繰り広げたはてに、彼らを撃退して大勝を収めた。この戦闘は金時敏の晋州の戦い、李舜臣の閑山島の戦いと共に壬辰倭乱三大捷の一つと言われている。

幸州山城戦闘 幸州山城戦闘