朝・明連合軍の反撃と終戦

朝鮮の急迫した状況を伝えられた明国は救援軍を派遣した。楊鎬は平壌に留まって麻貴がまずソウルに入り、6月に諸将帥を分けて該当地域を守らせた。

以後、日本軍は7月28日から北上を開始し、宇喜多を隊長にした5万の兵力が泗川から河東を経て求禮に侵入し、その一部は咸陽を経て雲峰に侵入して南原を攻撃した。また、毛利を隊長にした5万の軍も草渓・安義を経て全州へ向かい、その一部は茅國器の本拠である星州に迂回し、やはり安義・全州方面へ向かった。当時、照明連合軍は南原に駐留していたが、8月14日から開始された日本軍の攻撃に持ちこたえることができずに16日に敗北した。また、2,000人の兵力で全州を守った明国の遊撃陣愚衷も城を捨てて敗走し、日本軍は全州を無血占領した。

このように日本軍の北上が続いて民心が動揺すると、明国軍は南方から退却した兵力を利用して漢江でソウルを守り、平壌にいた経理楊鎬は急いでソウルに来て、日本軍の北侵阻止を指揮することになった。以後、楊鎬は副摠兵解生・牛白英らを南に進撃させたが、9月5日未明に稷山北方素沙坪で黒田軍と激突して敗退させることによって、日本軍の北上を完全に遮断した。

これと共に三道水軍統制使に再度任用された李舜臣9月16日、鳴梁海峡で日本軍大船団を相手に大きな勝利を収めて、日本軍の西方海上への進出を封じ込めた。進路を封鎖された日本軍は冬が差しせまってくるという理由で、10月から南海岸に集結しはじめた。そして、10数万の日本軍は蔚山から順天に至る南海岸800里に城を築いて駐留した。蔚山には加藤と鍋島軍が、梁山には宇喜多と毛利軍が、泗川には島津軍が、南海には立花宗茂らの軍が、順天には小西軍が各々駐留した。

鳴梁海戦 鳴梁海戦

一方、1597年8月18日、朝鮮侵略の主導者であった豊臣秀吉が病死することによって、日本軍は豊臣の死を隠したまま次第に撤収を始めようとした。明国提督劉綎は9月中旬、順天の小西軍が撤収しようとしているという報告を受け、9月20日から陸上でこれを攻略し、李舜臣と陳璘も水上で封じ込めて退路を得ようと死力を尽くす日本軍と数日間激戦を行った。

封鎖されて退路を遮断されていた小西の救援要請を受けた島津が兵船500余隻を率いて11月18日の夕方、暗闇を利用して南海露梁へ攻撃してきた。李舜臣は焼香で空に誓って明軍と共に呼応し、露梁で敵の船隊をむかえて敵艦隊の半数余りを撃破した。敵は耐えることができずに南海観音浦へ逃げたが、退路が詰まって再度出てくるのを李舜臣が自ら敵陣に飛び込み、督戦している間、敵の流弾に当たって戦死した。李舜臣の遺言により、甥の李莞が代わりに指揮し、敵艦200余隻を撃破して日本軍を打ち破った。島津らは50余隻を残してかろうじて脱走し、小西は激戦中に猫島へこっそりと抜け出した。劉綎は順天へ、陳璘は南海へ戻った。

豊臣が死んで日本の内政が不安で、日本軍が急に撤収することはしばらく経ってから知ることになった。かくして7年間にわたった壬辰倭乱は終わった。

露梁海戦 露梁海戦