歴史館

伽耶史[A.D1~6世紀]

History of Gaya Confederacy (photo)
  • 伽耶時代とは、金海に伽耶の国があった時代のことをいいます。一般的に三国時代という名称が使われていますが、古代韓国には高句麗・百済・新羅の三国だけがあったのではなく、伽耶史が疎外される名称でもあるため受け入れ難いものがあります。抜け落ちてた内容のない正しい韓国古代史を復元するためにも、必ず正さなければならない時代の名称です。だからといって、ここで言う伽耶時代が三国時代に取って代わる時代区分の名称であるとはいえません。主体的歴史観から、私たちの故郷の歴史を伽耶の国があった時代だという意味で伽耶時代という名称を使用しています。伽耶時代は伽耶の色々な国が慶尚南道一円にあった紀元前後から、532年の金海大駕洛および562年の高霊大加耶の滅亡に至るまでの約600余年間の歴史のことをいいます。

金海粉青沙器[1400~1510年]

Gimhae Buncheonsagi (photo)
  • 粉青沙器とは粉粧灰青沙器の略語で、当時日本人が使っていた三島という名称の意味があいまいだとして、高裕燮先生が白土扮装と灰青色の特徴を生かして粉粧灰青沙器と命名したことに由来しています。そのような粉青沙器は概して高麗王朝14世紀中頃、衰退しつつあった象嵌青磁から始まり、15世紀初めに朝鮮王朝に入って大きく発展し、高麗青磁とは美の方向を全く別とする広くてのびのびとした美しさを精一杯発揮しました。さらに世宗大王の時代には多様な技法の粉青沙器が製作されて、韓国陶磁器史上において明確な位置を占めました。しかし15世紀後半になると、京畿道広州に国家が直接運営する官窯、すなわち分院が設置され、国家に貢納していた各地の粉青沙器の窯は徐々に衰退していきました。そして15世紀後半~16世紀前半には、白土扮装技法と刷毛目扮装技法が盛んに行われて粉青沙器の窯は小規模で運営されながら、次第に白磁へと移行していきました。

紅衣将軍と忠翼祠[1592年4月13日]

General in Red and Chungiksa (photo)
  • 住所 : 宣寧郡宜寧邑忠翼路1(宣寧郡宜寧邑中東里467-2)
  • 壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際、最初に義兵を起こして国を守った紅衣将軍・郭再裕とその旗下将兵の位牌が奉られている祠堂です。

論介[1593年6月]

Nongae (photo)
  • 1592年10月5日から10日までの戦いで10倍近い外敵をはね除けて大勝をおさめた壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の三大捷(三大勝戦)のうちの一つである晋州城大捷で敗北した倭軍は、1593年6月に12余万の大軍を率いて再び晋州城へ攻め込みました。この第2次晋州城の戦いで多勢に無勢で城を守った民・官・軍7万人は最後まで抗争しましたが、壮烈な最後を遂げて晋州城は陥落されました。論介は城が陥落されるとすぐに倭将を矗石楼の絶壁の下の義巖岩で誘惑し、彼を抱きかかえたまま川に身を投げたことで義妓と称えられています。

青馬文学館[1908~1967年]

Cheongma Literature Hall (photo)
  • 住所 : 統営市望日1キル82(貞梁洞)
  • 詩人の柳致環(号:青馬)先生の文学精神を保存、継承発展させる目的で、2000年2月4,026㎡の敷地に文学館と生家を復元して、望日峰の麓に開館されました。

馬山三鎭義挙[1919年]

Masan Samjin Uigeo (photo)
  • 1919年3・1運動が全国的に展開した頃、当時の馬山市(現.昌原市)鎭田・鎭北・鎭東の3つの面の住民たちが連合して起こした義挙のことをいいます。この義挙は水原の堤岩里事件、平安道宣川邑義挙、黄海道遂安義挙とともに己未年4大義挙に挙げられる大義挙であります。三鎭義挙で殉国した知事は8人、けが人は22人でした。この日犠牲になった殉国知事は金守東、卞甲燮、卞相福、金永煥、高昴柱、李基鳳、金浩鉉、洪斗益の8人です。これら殉国知事たちは、八義士として称えられ、光復の翌年である1946年に地方民たちによって社洞橋の向い側の岩壁に彰義碑が建てられました。さらに1963年10月には義挙当時に八義士が倒れた場所に新たに八義士彰義塔を建てて英霊を慰撫しています。また1968年に政府は、八義士の遺訓を賛えて建国功労大統領賞を追叙しました。この壮烈な義挙を記念して1963年には、鎭東面社洞里の当時の現場には「彰義塔」が建てられ、三鎭義挙の震源地である鎮田面良村里の山裾に「八義士墓地」が造成されました。

居昌良民虐殺事件[1951年7月~12月]

Geochang Massacre (photo)
  • 住所 : 居昌郡神院面神車路2924(大峴里551)
  • 1951年2月9日から11日までの三日間、慶尚南道居昌郡神院面にて国軍兵力の一部が共産軍の討伐を口実に、罪ない住民たちを719人も無差別虐殺した上に、犯行を隠蔽してしまった事件のことで「居昌良民虐殺事件」といわれています。

巨済捕虜収容所遺跡公園[1952年5月]

History Park of Geoje POW Camp (photo)
  • 住所 : 巨済市鷄龍路61(古縣洞362番地)
  • 巨済島捕虜収容所は1950年6月25日の朝鮮戦争勃発によって発生した捕虜を収容するために、1950年11月から古縣、水月地区を中心に捕虜収容所を設置し始め、1951年6月までに人民軍捕虜15万人、中国共産軍捕虜2万人など17万3千人余りの捕虜を収容した。その中には300人余りの女性捕虜もいたといわれています。しかし、「反共捕虜」と「共産党シンパ捕虜」間の流血殺傷がしばしば発生していた上、1952年5月7日には収容所の司令官であったドット推奨が捕虜に拉致されるなど、冷戦時代の理念葛藤を縮小現場のような姿でした。

3・15馬山義挙[1960年]

3.15 Masan Democracy Movement (photo)
  • 住所 : 昌原市馬山会原区3・15聖域路75国立3・15墓地
  • 1960年3月15日李承晩自由党独裁政権が長期政権維持のために不正選挙をたくらむと、すぐに馬山市民と学生たちがこれに抵抗してデモを起こしました。3月15日の第1次義挙に続いて、4月11日にこの間行方不明になっていた金朱烈君が頭に催涙弾が打ち込まれた凄惨な姿で馬山中央埠頭に死体で浮び上がると、すぐにいきりたった市民たちが再び第2次義挙を起こして戦いました。この抗争で12人が死亡し、250人余りが警察が撃った銃弾にあたったり、逮捕拘禁されてひどい拷問に遭いました。このような馬山市民と学生たちの義に徹した闘争は、全国民の怒りとともに4・19革命の導火線となり、ついには4月26日に李承晩独裁政権を押し倒すに至りました。自由・民主・正義が基本精神である3・15馬山義挙は、現代史における最初の民主・民族運動であり、韓国の民主主義歴史発展に画期的な転機をもたらし、さらには民族平和統一運動へと広がってゆきました。

최종수정일 : 2017-12-04

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