義兵の蜂起と活躍

義兵は官権によって徴集された軍人ではなく、自ら集まった民兵集団である。官軍が無力なために国土が倭軍に踏みにじられ、多くの人が罪なく倒れていくと、同族を救って郷土を自ら守るために義兵が蜂起した。

郭再祐 郭再祐

義兵の土台を成す精神は徹底した民族的抵抗意識で、これを触発させたのが義兵将だった。また、儒教の道徳的教訓の勤王精神が長い間の儒教教育を通じて、深く根をおろすことになったのも義兵蜂起の一つの動機だったと見られる。

1593年(宣祖26)1月、全国で把握された義兵の数は官軍の4分の1に該当する2万2,600人余りに達するが、この人員は義兵の活動が最も活発だった壬辰年に比べて非常に減少した数字だ。1593年に入って官軍が徐々に回復し、義兵を節制してその活動に多くの制約を与え、解体したり官軍に吸収されることが多かったためだ。代表的な義兵将として郭再祐・高敬命・趙憲・金千鎰などがいる。

壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で義僧の活躍も省けない。僧侶として最初に蜂起した彼は霊圭である。彼は公州青蓮庵にいながら修行する一方、禅杖を持って武術訓練を楽しんだそうだが、彼は乱があることを予測したようだ。彼は自ら義僧将になって義僧軍を募集し、部下800人の義僧軍を率いていた。蜂起時期は下三道義兵が起きる時期と時を共にしている。

以後、妙香山の老僧休静(西山大師)が数千の門徒で僧軍を起こして各寺院に檄文を送った。そして、霊圭以外にも湖南の処英、関東の惟政(松雲大師)、海西の義厳など休静の門徒らが僧軍を起こして呼応した。

この他に全国の寺院で起きた義僧軍の数も多く、彼らの戦果もまた大きかった。義僧軍が最も多くの活躍をした期間は、1592年6月から翌年1593年4月の都城を修復するまでである。この期間中に義僧軍が活躍した戦闘としては、清州城・平壤城・幸州山城の戦闘などである。

惟政(松雲大師) 惟政(松雲大師)