カレー海戦はスペインアルマダ(スペイン語で艦隊という意味)がイングランドを侵略しようとする軍事作戦だった。スペインはイングランドを再びカトリック国家に戻してイングランドの海賊たちの略奪に対して報復しようと大規模艦隊を編成してイングランドを侵略しようとした。スペインは多くの地上軍を準備したが、イングランドだけでなくスコットランドのどの港にも入港できなかった。イングランド艦隊はスペイン艦隊とイングランド海峡周辺のカレー地方にあるグラベリン沖で海戦を繰り広げた。この海戦以後、スペインは次第に海洋力を失うことになり、これはイングランドが新しい海洋強国に発展できる契機になった。
歴史的背景
宗教改革
時が過ぎ、新教運動は大部分のヨーロッパ国家で歓迎され、旧教と新教間の紛争により戦争が起こる兆しが見え始めた。イングランドはローマカトリック、すなわち旧教とヘンリー8世治世のときに背を向けた。ヘンリー8世はローマカトリック修道院の財産を奪って、イングランド教会の首長は自分だと宣言した。このように彼が宣言することになった理由は、ローマ政府が自分の離婚を承認しなかったためであった。.

このような宗教紛争は1572年8月24日にフランスで極まりに達した。多くのユグノー(新教徒)たちがマルガリータ王女の結婚式で旧教徒によって虐殺されたのだ。当時スペインの国王だったフィリップ2世はスペイン領土であったオランダに軍隊を派遣して、新教徒の動きを事前に防ごうとした。このような宗教的紛争はオランダ独立運動につながることになる。1566年、新教徒の政党がイングランドの助けで反乱を試みる。後に、皮肉にもこのようなフィリップ2世の宗教弾圧政策は、カレー海戦での敗戦要因の一つになった。オランダ新教徒たちによってスペイン地上軍がスペイン船に上がるのを妨害されためである。
イングランドとスペインの紛争
エリザベス女王は自分の父であるヘンリー8世の宗教を継承し、ヨーロッパ大陸にある新教国家、すなわちオランダのような所を支援した。エリザベス女王は特にオランダの新教徒たちと密接な関係を結んでいたが、イングランドとオランダ間の距離が遠くなかったため、オランダにあったスペイン勢力がイングランドの大きな脅威要素の一つであったためであった。その当時スペインはオランダと周辺のフランドル地域に強力な軍隊を駐留しておいた状態であった。

イングランド人たちの持続的なスペイン船略奪によりスペインは多くの被害をこうむった。このためにフィリップ2世は1580年7月からイングランド船舶を監視して、西インド諸島と大西洋で引き続き略奪をしたドレークを罰するようにイングランドに圧力を加えた。しかし、エリザベス1世はむしろドレークに爵位を与え、イングランド軍をオランダへ派遣して、スペインに対抗して独立運動を広げたオランダを助けた。
フィリップ2世のイングランド侵略計画
スペインのイングランド侵略計画は当初伝説的な提督だったサンタクルスによって立てられた。サンタクルスはアイルランドを先に占領して、その後でイングランドへ前進しようと提案したが、彼が死んだ後、この計画は失敗に終わってしまった。彼に続いてメディナ公が再び計画をたてた。メディナ公は優れた軍人だったが、海戦経験は多少不足していた。これもスペインがカレー海戦で敗れることになる原因の一つとなる。フィリップ2世の計画は彼の艦隊をオランダにあった地上軍のパルマ公の軍隊と合わせて攻撃するというものだった。フィリップ2世と側近たちは強力なスペイン地上軍がイングランドに降りるやいなや、勝った勢いで進むものだと確信したためだった。
イングランドの戦争準備
スペインの侵略計画の実行内容,艦隊の規模,司令官の名前などもスペイン内で活動したイングランドスパイたちによって本国に伝えられた。今日まで伝えられているあるスパイがイングランド政府に送った手紙の内容には、130隻の船がイングランド侵略のために準備され、ドン・アロンソ・デリバがスペイン地上軍総司令官になったと正確に記しており、オランダのパルマ公に艦隊がいつ到着するのか知らせるために、あるスペイン船がスペイン艦隊が出発する前にオランダに発ったという内容も含んでいる。この手紙はスペイン艦隊のために出兵に参加したイタリア船長の手紙を土台に書かれたものであった。
カレー海戦の前後状況
艦隊と司令官
イングランド艦隊 | スペイン艦隊 | |
---|---|---|
司令官 | ハワード提督, ドレーク提督, ホキンス提督 | 総司令官: メディナ公 地上軍総司令官: ドン・アロンソ・デリバ |
兵力 | 15,000人 | 総:28,000, 地上軍:20,000, 海軍および追加兵 力:8,000 |
艦船 | 総:197 隻戦闘船: 新しく建造したガリオン船20隻を含めた75隻 |
総 : 130隻戦闘船 : 65隻, 兵船:2隻 |
スペイン艦隊の出港
7月中旬にスペイン艦隊はイングランド海峡の西側付近に到着することができた。7月30日頃にスペイン艦隊はイングランド領土のコーンウォール地域で目撃された。このとき、イングランド艦隊はプリマス港に停泊していた。スペイン艦隊は三日月模様の形を取ったままイングランド海峡に沿ってフランダース地方に進んでいた。
イングランド艦隊とスペイン艦隊が初めて交戦した後に、ハワード提督はイングランド艦隊を四つの分隊に分けて一分隊は自分が、一分隊はドレーク提督が、一分隊はホキンス提督が、そして残り一分隊はマーティン卿が率いるようにした。イングランド艦隊はスペイン艦隊と数回交戦をした。この過程でドレーク卿がスペイン艦隊の1隻を捕獲して、1隻はスペイン軍の誤りで火に焼けて沈没した。イングランド艦隊はスペイン艦隊に致命的な被害を与えられなかったが、スペイン艦隊の艦砲を消耗させるには成功した。メディナ公がパルマ公に書状を送って艦砲と弾薬を準備してくれと言ったためだ。スペイン艦隊とは反対にイングランド艦隊は弾薬および飲み水,食糧などを付近の港で調達し続けることができた。これは勝利要因の一つに作用した。
8月6~7日頃にスペイン艦隊はパルマ公と会うことにしたカレー沖に停泊した。スペイン艦隊は海の水位が低く船が大きいため、入り江に停泊することが難しかったので、沖で停泊した後、パルマ軍を小さい船に積み出すことにした。イングランド艦隊もスペイン艦隊の付近に停泊した。メディナ・シドニア公はカレーに到着する前に自分の部下をパルマ公のもとに送ったが、パルマ公の軍隊は何日過ぎてもこなかった。最近明らかになったスペイン歴史学者たちの研究結果によれば、その当時、パルマ公はすでにこの侵略計画が失敗したと思い、軍隊を内陸に移動させたという。
決戦の日
結果
スペインへ向かう途中、スペイン人たちは深刻な食糧および水不足に苦しめられていた。台風も彼らを苦しめた。飢えたスペイン船員たちはメディナ・シドニア公の命令にもかかわらず、アイルランドに停泊して食糧を探そうとした。しかし、彼らの大部分はこれをあらかじめ予想したエリザベスの軍隊によって殺戮された。メディナ・シドニア公は9月13日になって半数残った艦隊を率いてサンタンデール港に到着する。
カレー海戦の影響
参考資料
映画
- エリザベス : ユニバーサル映画社, 2007
書籍
- 世界を変えた50人の戦争の英雄 : ウィリアム・ウェーバー, 2007
- スペインアルマダの敗北: ガレット・マーティンリー
ウェブサイト
- British Library : http://www.bl.uk/learning/histcitizen/uk/armada/source2/channel.html
- National Archives : http://www.nationalarchives.gov.uk/nelson/gallery7/trafalgar.htm
- BBC History : http://www.bbc.co.uk/history/british/tudors/adams_armada_01.shtml