韓国の中の李舜臣

韓国人が李舜臣という名前を記憶するのは、彼が単純に壬辰倭乱当時、朝鮮を侵略した日本に比べて船舶、兵力、武器、政府支援の絶対的不足という悪条件の中で23戦23勝という奇跡の勝利を記録したためだけではない。韓国人が李舜臣の名前を胸の中に刻むのは、彼が戦争当時、ただの一度も敗北せず韓民族が排出した世界人類歴史上、最も偉大な海戦将帥であるからだけでなく、彼が持っていた死を超越した精神が、彼が属した共同体に向かう愛、彼とともに歴史をつくっていった国民に対する仕える心などが今日を生きていく韓国人たちに人生の羅針盤になるからだ。このような理由で、彼がこの世を去り500年余りが過ぎたが、いまだ数多くの韓国人たちが彼の精神、彼が残した言葉、彼が見せた行動、そして彼が記録していった歴史を、胸に一つ一つ刻んで21世紀不確かな未来を切り開いているのだ。李舜臣、彼は今までもそうであったし、今後も大韓民国皆の不滅の英雄といえる。

李舜臣に対する朝鮮時代の人物の評価を見れば以下のとおりである。

私たちの歴史上の将帥として、普通小さな敵にあって功労をたてて名をはせた者は多かったが、彼は国が衰弱して戦争を敬遠するときに、天下にこの上なく強い敵に出会って、大小の数十回の戦いに全て勝ち抜き、西海を横に塞ぎ敵が水陸に並進できないようにして、国を起こしなおす根本をつくったため、あの一時の功績を立てた臣下としては真似できないことだ。しかも彼のからだをはった節義と国乱に死ぬ忠誠や、行軍して用兵する妙理で複雑な事務などを処理する知恵は、すでに全て見て知っていることだが、昔の名将や善良な将帥として百年に1人、2人しか出てこないそのような人物でもこの方を越える人物はいないだろう。
<朝鮮仁祖時代大提学,李植>

私はあなたを捨てたけれどあなたは私を捨てなかった。一等功臣に選んだが、褒賞がむしろ足りない。
<朝鮮第14大王,宣祖>

節義に死ぬという言葉は古くからあるが、自分が死んで国を生かした人は初めて見た。
<朝鮮時代第19大王,粛宗>

私の先祖が国を起こしなおした功労の基礎になったのは、ただ忠武公一人の力、まさにそれによるものだ。私は今、忠武公に特別な碑銘を建てないで誰に碑銘を建てるというのか。唐国社稷を安定させた李成と漢国王室を回復させた諸葛亮を合わせた人が忠武公だ。
<朝鮮第22大王,正祖>

朝鮮第22大王,正祖 朝鮮第22大王,正祖

公は厳しく落ち着きがあり威風がある一方、人を愛して高尚な人に謙虚で、恩恵と信義がはっきりとしていて、識見と度量が深く喜びと怒りをあまり現わさなかった。かつて言ったことは“立派な男の世の中に出て使われれば、死にもの狂いで忠誠をつくします。使われなければ、畑を耕して生きれば満足であるから、権力ある者にへつらって浮かんだ栄華をうらやましがるのは私の恥じるところだ”と言った。s
<朝鮮仁祖時代の承旨,崔有海>

李舜臣は木の根のよな高尚な人であったが、言葉と笑いが少なかった。才能はあったが、命が短くその持った才能の百のうちの一も発揮できなかった。
<李舜臣の友,領議政,柳成龍>