3次出戦

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閑山島海戦 (1592. 7. 8)

閑山島海戦 (1592. 7. 8)
朝鮮艦隊 日本艦隊
司令官 李舜臣, 李億祺, 元均 脇坂安治
兵力 59隻の板屋船, 50隻の小舟 73隻
死傷者および被害 なし 59隻被害
日本の統治者であった豊臣秀吉は日本軍に伝令を下し、水軍同士連合して朝鮮艦隊に対抗するように命じた。しかし、脇坂安治は一人で出戦することに決めた。7月7日、脇坂は日本艦隊を率いて当時日本水軍の総司令部があった鎮海を離れた。脇坂の艦隊は巨済島付近に到着して見乃梁に停泊した。停泊していた日本艦隊を見た羊飼いがこれを朝鮮艦隊に知らせた。朝鮮艦隊は日本艦隊を広い海へ誘引することにしたが、これは見乃梁沖が狭くて板屋船の進行方向を変えにくかったためだった。その上、日本軍は戦闘中に守勢に回れば、陸地に逃げる公算が大きかった。
閑山島海戦 閑山島海戦

5,6隻で構成された分隊は見乃梁へ向かい、残り艦隊は閑山島沖で待機した。分隊は日本艦隊を攻撃して退却させ、日本艦隊を誘引した。李舜臣将軍はこの戦闘で将軍の最も有名な戦法の中の一つである‘鶴翼陣’を広げるように命令した。朝鮮艦隊は鶴翼陣を取ったあと、直ちに砲門を開いて攻撃し、はじめの攻撃により2~3隻の日本戦船があっという間に沈没した。朝鮮艦隊は勢いに乗り、日本艦隊の隊長船に攻撃を集中させながら日本艦隊を囲んで攻撃を繰り広げた。戦闘が守勢に追い込まれると、日本大将脇坂安治は14隻の船を率いて退却した。

安骨浦海戦 (1592. 7. 10)

安骨浦海戦 (1592. 7. 10))
朝鮮艦隊 J日本艦隊
司令官 李舜臣, 李億祺, 元均 九鬼嘉隆, 加藤嘉明
兵力 59隻の板屋船, 50隻の小舟 42隻
死傷者および被害 なし 20余隻撃沈
朝鮮艦隊が見乃梁で休息を取っているとき、7月9日に探望船から日本艦隊40隻余りが安骨浦に停泊しているという報告が入ってきた。当時、安骨浦に停泊していた日本艦隊は九鬼嘉隆と加藤嘉明の連合艦隊であった。二人の日本大将は7月7日に脇坂艦隊に従って出戦したところだった。7月10日に朝鮮艦隊は安骨浦へ向かった。朝鮮艦隊は入り江沖の水位が低くて板屋船が接近できなかったので、日本艦隊を誘引しようとした。しかし、日本艦隊は入り江から出ずに陸地から対応射撃をしてきた。李舜臣将軍は分隊を送り、港に停泊していた船を艦砲攻撃で沈没させた。多くの日本軍が死に、生き残った者は陸地へ逃亡した。日本艦隊の半数程度の船が撃沈されたあと、朝鮮艦隊は周辺の山に隠れていた平民の安全と安危が気になり、戦場を離れた。李舜臣将軍の艦隊は7月13日に本陣に帰った。
安骨浦 安骨浦