5次出戦

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熊浦海戦(1593. 2. 1)

熊浦海戦(1593. 2. 1)
朝鮮艦隊 日本艦隊
司令官 李舜臣, 李億祺, 元均
兵力 89隻 40隻
死傷者および被害 通船2隻転覆 倭軍100人射殺

熊浦海戦の期間である2月22日から29日までの1週間の晋州城第2次戦闘で、朝鮮軍9千2百余名と民間人6万余名が9万2千余名の日本軍の攻撃を受けて全滅するとてつもない敗戦を喫した。しかし、全羅道の関門である晋州が陷落したが、日本軍は全羅道を占領することはできなかった。李舜臣艦隊が全羅道海上を鉄壁守備したためである。

よく熊浦海戦はあまり重要な海戦ではないような評価が下されているが、明·日講和交渉期に行われた重要な一戦であった。特に宣祖から李舜臣が三道水軍統制使に任命される相当期間以前に正式命令で全ての水軍を総動員しろという内容を含んでいることから見て、三道水軍統制使の職制を創設する構想をたてていたことがうかがえる。

そして、「一隻の船も返すな」(片帆不退)という力強い王の指示は、敵の退路遮断と追撃掃討の意志を内包していたが、李舜臣は最長期間である1ヶ月3日間の苦しい作戦を展開した。しかし、不幸にも当時の作戦権を握っていた明軍が日本との講和交渉を進展させるために、陸軍はもちろん水軍に戦闘中止指示を下すことで、憤りが爆発するのに耐えがたかったのである。朝鮮戦争の休戦も望まない方向に進展したため、結局、休戦協定調印のとき、戦争当事国でありながらも協定文書の署名者として含まれなかった侮辱を受けたのである。

ともかく、李舜臣の熊浦海戦は豊臣の特別命令によって、敵水軍が熊浦に構築した海上前進基地兼陸上前哨基地を半身不随に大破することで、日本と明との講和交渉で朝鮮に不利な条件を一方的に日本が突きつけることができないように釘をさす役割をしたのである。