出仕と官職

  • Home
  • 李舜臣
  • 一代記

出仕と官職

武芸を練磨して7年が過ぎ、李舜臣は28才になった年の宣祖5年(1572年)8月、武人選抜試験の一種である訓練院別科を受験した。しかし、李舜臣はこの初めての武科で落ちてしまった。

彼は馬に乗って走りながら弓を撃つ騎射科目を受けている途中、落馬する過ちを犯したのだ。 しかし李舜臣はまた起きて柳の枝を折ったあと、皮をむいて傷にあてがって最後まで試験を成しとげた。科挙には落ちたが、これを見守った多くの人々に深い印象を植えつけた。

そのあと武芸を磨き続けて、4年後の1576年(宣祖9)32歳の遅れた歳に式年武科に合格した。 一歩遅れて武科に合格した李舜臣は、その年12月に咸鏡道董仇非堡権管に赴任したあと、1591年全羅左水使になるまで決して平坦でない道を歩むことになる。

32歳で北方を守備する将帥になった以後、全羅左水使になるまで職責と勤務地を九回も変えて李舜臣は時には知り合いの上官や同僚に会ったりもしたが、北方で女真族と戦って負傷したこともあり、時には上官から恨まれたり、謀略を受けて罷免されて白衣従軍もした。辺境の下級将校で始まったこの15年間は大きい試練の時期であった。しかし彼は黙々と自分の任された任務を成しとげ、ついに上官と朝廷からその人格と能力を認められることになった。

以後、李舜臣は45歳には全羅巡察使李洸の軍官になり、続いて1589年、井邑県監のとき、47歳に朝廷の国防強化にともなう武官の不次擢用(不次擢用:手続きと順序に関係なく能力がある者を抜てきするという政策)により、柳成龍によって推薦されて高沙里僉使に昇進、続いて満浦鎮僉使・珍道郡守などを経て全羅左水使に任命された。当時、宣祖は備辺司に命じて、其々の将帥の人材を推挙させたが、これに柳成龍は権慄と李舜臣を推挙し、尹斗壽が権慄を義州牧使に推挙して郎僚として正常な昇進順序を飛び越えて抜擢された。

The battle of Haengju Fortress