露梁海戦と殉国

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露梁海戦と殉国

1598年11月19日、李舜臣は順天曳橋城に孤立していた小西部隊の脱出を助けるためにゆっくりと集結した500隻の敵船を発見し、戦いを忌避しようとする明国水軍提督陳璘を説得して攻撃に出た。彼は艦隊を率いて退く敵船に向かって猛攻を加え、これに耐えることができなかった日本軍は多くの戦船を失い死傷者が出た。

しかし、船頭に立ち上がって敵軍を指揮した李舜臣は、惜しくも敵が撃った銃弾に当たった。彼は死ぬ瞬間まで“戦いは今こそ大事なときだ、私が死んだことを知らせるな。”と静かに目を閉じた。

露梁海戦 露梁海戦

運命を見守った息子は悲しみを抑えきれずにそのまま号泣しようとしたが、李文彧がそばで泣きやませて服で死体を覆い隠したあと、太鼓を叩いて前に進んで戦うように促した。兵士らは統制使が死んでいないと思い、力を振り絞って奮戦して退く日本軍を大破した。皆“死んだ舜臣が生きている倭軍を撃退した。”と言って叫んだ。訃音が伝播するや全国民が悲しんだ。

露梁海戦は朝鮮水軍の愛国心と優秀性を轟かせた最後の海戦であり、朝鮮水軍が主導した史上最大規模の勝利であった。