死後の尊崇

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死後の尊崇

李舜臣は限りない忠誠心、崇高な人格、偉大な統率力を備えた壬辰倭乱中の最も優れた武将として、大きな功績を立てて危機に瀕した国を救っただけでなく、民族史に独歩的に永遠に残る人物である。

李舜臣は文にもたけており、《乱中日記》・時調などの優れた作品を残した。特に陣中で詠んだ時調は憂国衷情がこめられた傑作品に選ばれている。

Yi sunsin

李舜臣が戦死したという知らせが朝廷に伝えられるや、宣祖は官員を送って弔問し、右議政に追贈した。1604年、宣武功臣1等に録勲(勲功を記録する)され、徳豊府院君に追封(死後に官位を与える)され、左議政に追贈、1793年(正祖17)に領議政も贈られた。同時に忠武公という諡号が贈られた。

墓は忠清南道牙山市陰峰面於羅山にあり、王が自ら建てた碑文と忠臣門が建設された。忠武の忠烈祠、順天の忠愍祠、牙山の顕忠祠などで祭祀を行ったが、この中で顕忠祠の規模が最も大きい。顕忠祠は朝鮮粛宗年間にこの地の儒者らが彼の霊廟を建てることを上疏して、1707年(粛宗33)に賜額、顕忠祠が建てられた。

李舜臣標準影幀影像 李舜臣標準影幀影像

その後、日帝強制占領期に東亜日報社が主催になって、全国民の寄付を集めて顕忠祠を補修し、第3共和国のとき朴正熙大統領の特別指示によって、顕忠祠の境域を拡大、聖域化し、新しく展示館を設置して宗家に保存されてきた《乱中日記》と彼の遺品などを展示した。そして彼の生涯と重要海戦を描いた十景図が展示されている。