海戦での連勝

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海戦での連勝

壬辰倭乱が勃発する14ヶ月前に全羅左水使に赴任した李舜臣は、まず隷下の防踏・蛇渡・呂島・鉢浦・鹿島など5鎮を巡視して紀綱を正して、ささいな迷惑でも及ぼした者は階級如何を問わず厳罰に処した。そして戦備を整え、港には鉄鎖を架設して敵の奇襲に備えて戦艦を新しく建造する一方、世界初の装甲船である亀甲船を造った。ひいては兵糧の確保のために、海島に屯田を設置するのを朝廷に要請したりもした。

1592年4月14日、日本の侵入で壬辰倭乱が始まった。壬辰倭乱が勃発する以前に、朝鮮の防御戦略は陸地で海を渡ってきた日本軍を制圧するということだった。その戦略は日本軍の戦術を分析して準備したものではなく、“日本は島国なので海戦は得意だが、陸戦はできない。反面、朝鮮は陸地の国なので陸戦は得意とするが海戦は得意でない。したがって、倭軍が侵略してきた場合、朝鮮軍は陸地で日本軍の侵略を制圧しなければならない。”という防倭陸戦論に基づいて樹立されたのだ。

しかし、朝鮮政府の予想とは異なり、日本は陸軍中心に侵略軍を編成したあと、戦船に乗って海を渡ってきた。戦争初期、朝鮮軍は海を防御するのに粗雑だったため、日本軍は海上で何の抵抗も受けずに釜山に上陸することができた。彼らは以後、釜山を足掛かりとして北進を始めた。朝鮮陸軍は尚州と忠州で防御線を構築したが日本軍を防御するのに失敗した。

十景図 - 亀甲船建造 十景図 - 亀甲船建造

特に、海上防御を担当した慶尚左水軍は戦争初期に完全に崩壊され、慶尚右水軍の指揮官だった元均は巨済島防御をあきらめて、わずか4隻の板屋船だけ率いて唐浦に逃げたため、日本水軍は沿海に沿って西に移動しながら、略奪と殺戮、放火を行った。その結果、慶尚道沿岸は焦土と化した。元均の支援要請を受けた全羅左水使李舜臣が軍船を率いて慶尚道海上に出戦したのは1592年5月4日だった。

以後、李舜臣は壬辰年に4回出動して日本水軍を撃退した。朝鮮水軍は慶尚右道・全羅左道・全羅右島水軍の連合艦隊だったが、実際は全羅左水使李舜臣の指揮下にあった。1次出動で玉浦海戦など、2次出動で唐布海戦などで勝利し、3次出動で閑山大捷で日本水軍の戦意を完全に喪失させた。以後、4次出動では敵の橋頭堡である釜山を攻撃して制海権を完全に掌握した。これで李舜臣は南海の制海権を確保して日本軍の海上兵站線を遮断・封じ込め、朝鮮の軍事潜在力動員の基盤である湖南を敵の侵攻から保護しただけでなく、西海を通じた日本軍の水陸並進攻撃企図を粉砕することによって、ついに2回にわたった敵の朝鮮侵略・征服を阻止するのに決定的な役割を果たしたのである。

朝鮮水軍がこのように連続的に勝利したのは、地勢と潮流を熟知しており、日本船舶に比べて艦船が大きく堅固で機動力があり、天・地・玄・黄字銃筒などの火砲、神機箭、火箭など優れた火力があったためだ。もちろん勝利のより根本的な要因には李舜臣がいる。彼は戦略戦術と用兵術が優れていただけでなく、先頭で指揮して銃弾にあたるほど率先垂範したのである。

結局、李舜臣は壬辰倭乱の7年間、数多くの海戦で日本戦船700余隻を撃破する戦果をあげたが、このような戦果は世界海戦史でもその類例を探すのが難しいほど優れている。

十景図 - 釜山浦海戦 十景図 - 釜山浦海戦