白衣従軍

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白衣従軍

一方、小西行長の部下で二重スパイである要時羅が慶尚右兵使金応瑞に加藤清正がある日海を渡ってくるので水軍を使ってこれをひきつけるようにひそかに知らせてきた。日本軍スパイであった要時羅の奸計に陥った宣祖と朝廷は、三道水軍統制使李舜臣に水軍を率いて加藤清正の艦隊を迎撃するように命令を下した。

これに李舜臣はこれが敵の罠だと知りながらも、やむをえず出動したが、加藤はすでに数日前に西生浦に入ってきた後であった。したがって李舜臣は海路もあまりにも険しく、日本水軍の伏兵による奇襲攻撃を警戒して慎重な軍事作戦を敷いた。これに対して朝廷は、李舜臣が命令を破って日本軍艦隊を迎撃する機会をのがしたと判断した。

1597年2月26日、朝鮮朝廷は李舜臣を三道水軍統制使から罷免したあと、押送して義禁府に拘束した。宣祖は‘法から見て許すことができない罪人であるから死んで当然だ’と言って、‘自ら間違っていたと言わせるように鞫問しろと’と指示を下した。これによって李舜臣は何回もひどい拷問にあった。このとき、判中枢府事であった鄭琢は伸救箚(救命陳情書)を献上し、そのために積極的に弁護した。この上疏文は1,298字からなる明文で、朝廷はこの伸救箚によって、李舜臣に極刑だけは免じさせ、白衣従軍を命じた。

十景図 - 罪人の身 十景図 - 罪人の身

以後、南海岸へ向かっていた李舜臣は途中に母の訃告を受け、しばらく立ち寄って成服(葬式)を終え、悲しみを抑えてまた南へ向かった。その年の7月、三道水軍統制使元均が敵の誘引戦術に陥って、巨済漆川梁で全滅することによって、彼が努力して育ててきた無敵艦隊はその形跡さえ見つからず、閑山島の軍備はその姿形を見分けることができなかった。

白衣従軍とは?
白衣従軍は朝鮮時代に重罪を犯した武官に一切の官職と官位なしで軍隊に従って参戦させる処罰。
李舜臣は壬辰倭乱勃発4年前の1588年に豆満江北の鹿屯島に侵攻した女真族を討伐するための戦闘に白衣従軍として参戦し、以後壬辰倭乱期間中に二回目の白衣従軍をした。
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