三道水軍統制使

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三道水軍統制使

李舜臣は1593年にも釜山と熊川の日本水軍を撃滅、南海岸一帯の敵軍を完全に掃討し、閑山島に鎮を移して本営とし、その後、朝鮮初の三道水軍統制使になった。

翌年、明国水軍が救援兵として参戦して竹島に鎮を移したあと、長門浦で日本軍を撃破した。 以後にも敵軍の後方をかく乱して西海岸に進出しようとする日本軍の前進を防ぎ、敵軍の作戦に大きな支障をもたらした。

その後、明国と日本間の講和会談が進行し、戦争が小康状態に入って彼は次の大戦に備え、軍事訓練、軍備拡充、避難民生業の保障、産業奨励などに努力した。

しかし、1597年、数年間にかけて推進してきた明国と日本間の講和会談が決裂し、日本に渡っていった日本軍が再度侵入して丁酉再乱(慶長の乱)が起きた。これに李舜臣は敵を撃滅する機会がまためぐってきたことを喜んで戦闘に万全を期した。

The battle of Haengju Fortress